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5月の日記

5月19日(水)自然

本当にどうでもいい話だけど、学校帰りにタヌキを二匹見た。
その前、学校に行く途中では、カラスとトンビが空中でケンカしているのを見た。
機動性に優れているゆえか、カラスの方が優勢のようだった。
途中で、田んぼの中に浸かっている蛇もいた、白っぽい色の蛇。


緑の原、草木の香り、鳥の声、昆虫達、動物達。
大都市に生きれば都市の生き方が身に付いたし、
自然の多いところで生きれば自然の生き方、考え方が身に付いた。

多くの人に混ざって不快を覚えぬように生きていく方法、
人に騙されぬようにする方法、音と情報が多すぎる場所で生きていく方法、
それが都市で知ったルール。

穏やかにあり、ありのままを認め、生き物の生死を肌で感じ、
土に汚れ虫とふれあい、暗い森に紛れた気配を知ること、
それが緑多き場所で感じたこと。


都市で生きると耳を塞ぎ、目と心を閉じたくなる。
自然に生きると耳を澄まし、目を開き、感覚が鋭敏になってゆく。

ただ、都市でも自然の中でも、どちらの生き方もとても貴重で大切なものだ、
両方知ってこそ見える物も、意外と多い。
自然の中にいたからこそ見える都市の理もあれば、
都市にいたからこそ見える自然の優しさもある。


生まれてほぼ18年間を都市で暮らして来た身にすれば、
自然の多い土地は、優しさに満ちあふれていてとても良い物に感じられる。
都市は「人間」としての特殊なルールに溢れているけれど、
田舎は田舎で「自然」としてのルールが人々の間にも結構残っているように感じられた。
人々の考え方も違うし、都市の人に比べると全体的にみんな穏やかだと思う。
もちろん、都市も悪くない。
見る物も多いし便利だし、そもそも物が多くあるから退屈しないのがいい。
ただ自分はのんびり派で、何もなくとも一日を割と楽しく過ごせるので、
自然の中で木々の歌を聞く方が好みだというだけで。
ただ、何か物が欲しい時にちょっと不便な事があるのがたまに傷。


以上、本当にどうでもいい話。

5月12日(水)

どんな時も、
自分のやりたい事をやるのは良いことだけど、
でも社会にも適合しなきゃいけない。
学校にも行かずにやりたい放題するのに始まり、
働かずにやりたい放題することはあまり良い目で見られないし、
何より、自分は今いる社会に適合したいと思う欲求がある。

世の中は複雑になっていって、どんどん不確実になってゆく。
分かりやすい努力をしても、報われたり報われなかったりする。
大学出ても就職できないとか、一流大学出ても意外と得しなかったりとか、
金を大量に稼いでも思ったより楽しくなかったりとか、
結局何をするのがいいのかよく分からないから
メディアや社会なんかの規範に合わせて行動してみるんだけど、
そうしても楽しくなかったり幸せじゃなかったりすることも多い。
将来が不安なときにゲームなんかやっててもイマイチ燃えないし、
他にも色々といい事があったとしても、なんだか手放しで喜べる事が少ない。

何やっても正解がない。良さそうな選択肢もパッとは見えない。
ある意味では、自由の荒野になってるのかもしれない。
弱肉強食の世界――強い動物、要領のいい動物だけが生き残る世界。
齢が20代になってそんなに間もないけれど、自分の目から見た今の社会は、そんな風に見える。

やらなきゃいけない、または、やった方がいいのは、
今からでも強くなるか、要領良く生きる練習をするか、どっちかだ。
でないと生き残ることすらできない。

強さがない分は要領でカバーするしかない。
普通に戦って勝てない相手に出会っても、勝つためにできる工夫は色々ある。
テスト直前に勉強しても全然いい点が取れそうになくても、
いい点を取るだけなら手段は色々とある、というのも同様だ。
工夫して過去の問題を得るもよし、試験中に他人の答案を見るもよし、
要領一つ取っても、不正なものとそうでないものがある。
もちろん、罪の意識があるなら不正なんてしない方がいいだろう、
人間の間には「ルール」があるんだから、守るに越したことはない。
動物の世界では「ルール」なんてないから、不正も何も存在しないけれど。

強さとは何だろう。
体力、技術力、頭の良さ、経験、たぶんそういう物だろう。
つっても、どんな技術を得てどんな経験があればいいのか、
不明瞭な部分が多いかもしれない。
明確な目標があってこその技術だけれど、目標もなしじゃ結構厳しいモンがある。
こういう場合は、素直に「やりたいこと」を目標に据えるのがいいんだろうか。

「やりたいこと」がないならどうするか。
別にどうもしなくてもいいかもしれない。
社会が人を求めないなら、それがある意味で自然な姿なんだろうし、
とりあえず生きられる程度に糧を得られればいいんじゃなかろうか。
人間は所詮、遺伝子のベースは動物と同じなんだし、
糧(獲物)を得て生きて、場合によっては戦い(物理的・精神的)に負けて死んじゃったり、
競争に勝ち残ったオスがメスと子供産んだりして、
そうやってるだけでも別に普通に地球は回っていくわけで、
人間も突き詰めればその程度でいいんじゃないかなぁ……
……と、自分はそう思うようにしたいなと思ってる。
求められる物が大きすぎると心が押しつぶされてしまうから、
せめて自分の中だけでも肩の荷を軽くしておきたいってのが心情だ。
生まれて、生きて、そして死ぬ。それが己の最低限の目標。
生きるだけでも、ある意味で結構辛いモンがあるからこその、この目標。



ただ、どんな事があっても、心だけは元気でいられるように「強い心」が欲しい。
身体があまり強くないのもある。弱い体と弱い心しかなかった
これまでの人生を振り返ると、余計にそう思う。

目標は、
自分のことや辛い事など色々な事を真っ向から受け容れられる心、頑張れる心、
挑戦する勇気、恐怖を克服する心、諦めない根気、努力する誠意、思慮深さ、
何か違うものを認める寛容さ、どんな事でも肯定できる心、
装う必要のない、ありのままでも善い心。などなど、
そういったものを備えたものだ。


どんな状況になっても、どんな仕事をしても、どんな人と出会おうとも、
「心」だけはいつでもきっと必要になる。
心といってもあいまいな「強さ」でもあるけれど、だからこそ応用が利く。
なんせ一生モンだし、今から心のあり方について必死に考えても損はない。
って二、三年前ぐらいにも同じこと言ったような……。


何はともあれ、
明日の自分が、今日の自分より強くありますように。