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2月の日記

2月11日(水)

年を取ると時間が経つのが早くなるというのは本当のようだ。
……それと同時に、一つの事にバカみたいに時間を注ぎ込んでも苦と思わなくなってきた。

極限の慣れとは、呼吸をするのと同じぐらい「自然」に、何かを考え、何かをできるようになる事だ。
毎日ほんの少しずつ、その目標へ近付いている。
普通の生活もそうだし、創作活動もそうだ。


けれど、「慣れ」に頼りすぎると考えが凝り固まってしまう。
挑戦者である事を忘れ、今のままで踏みとどまっていようとする者には「思考の停止」が訪れる。
深く深く考える事をしなくなる、つまらない事に対して疑問を持つ事ができなくなる。
それらは時に偉大なる発見にも繋がる糸口だ。
ニュートンがリンゴが落ちるのを見て重力を見つけたというのは
後付けのお話らしいが、それでもそれに似たような事は物理学でも、
また他のどんな事でも起こりうる。
毎日見ている「当たり前の事」に疑問を持ったり、また、
「そこには何か理由があるのではないか?」と真剣に考えたりする思考は、
放っておけばすぐに錆び付く。
しまいには、自分はそうなってないつもりが、実はそうなっているという事も多い。
つまり「人間の思考はすぐ錆び付く」という事が分かっていながら、
自分の思考が錆び付いているかどうかはすぐには分からないのだ。


自分も、それには常に注意したいと思ってはいるが、なかなか気付くことはできない。
前よりは何事も効率良く物事が進むが、実はそれは
「思考が錆び付いていて、定番のレール通りの考え方しかできなくなっているから」
かもしれないのだ。
事実、思考が錆び付くと「セオリー(定番)以外の行動」を取るのが恐怖になってしまうケースは多い。
セオリーすら知らない最初の頃なんて、自分が取る全ての行動に対して
「恐怖」がオマケで付いてきてたというのに、慣れれば恐怖を感じる行動は取れなくなってくる。
だが「恐怖」を許容しただけで、選択肢は異常に増加する。
その選択肢の中には外れも多いが、誰もやった事のない「大当たり」もたくさん転がっている。
それを見つけるには、恐怖を許せる勇気がいる。

……が、普通、過去に「勇気ある行動」を取って一度でも成功した人間でなければ、
勇気ある行動なんて取れないのも一理だ。
人生にたった一度でも、「誰も耕さないような荒れた地を耕したら金が埋まってた」という
経験があれば、「誰もやらないような事やったら得する事がある、それは間違いない!」という
ある意味無根拠な勇気と、「無意味とも思える行動にも価値がある!何事もやってみよう!」という思考が
少なからず無意識下に染みつくだろう。
その人は次から、もの凄い荒れ地しか残ってなくても、
嫌がらずに耕しに行ってしまうかもしれない。
誰も行きたがらないのに、その人だけは鼻歌交じりで耕しに行く。
その人は、「何もなかったらどうしよう」とは心の中で少し思ってるが、
それでもその行動自身は絶対に無意味じゃないという確信があるのだ。
たとえ宝が見つからなくても、そんな事ばっかりやっていれば
荒れ地の耕し方だけはどんどん上手くなる。
その人はいつか、誰も持っていない「荒れ地のうまい耕し方」そのものが
大きな宝となるという事を知るだろう。
だが途中でイヤになったら、それすらも得られないという中途半端な結果になる。



とりあえず、「勇気」は得るのも難しいし、維持するのも難しい。
ついでに「気付く力」と「考える力」も同じだ。

だから、それらが腐らぬよう、錆び付かぬよう、常に自分を見つめ続ける必要がある。
決して油断するな、自分よ。