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11月の日記

11月8日(土)本音が見えない時

自分がまだ幼児か小学生だった頃、父に
「本音と建て前は把握しとけよー」と言われたのを思い出した。
その時は、実は「本音」の意味が分からなかった。
本音の逆である「建て前」との違いを意識していなかったせいかもしれない。
だいぶ小さい頃から、父や母から、良く見えるような態度を取る事を
求められているような気がして、言いたい事を言えなかった経験が強く記憶に残っている。
幼児が言いたい事を言えないというのは苦痛だろうから、
実はわずかなケースだけが異様に頭に残っていたのかもしれない。
そしてまた、本音の話を聞いたその時は、口に出た言葉と心の中で思ってる言葉が別物だなんて
考えもしなかったのかもしれない。
その時は本音と建て前の違いは分からなかったが、今は分かるようになった。
他にも本音に関しての話なら、「自分の本音が見える時は、心が落ち着いている時だ」とか
書いてあるのを、何かの本で読んだ覚えがある。

自分の「本音」が見えなくなるのは、どういう時か。
たとえば、「強がる心」や「恐れる心」、「自身過剰から来る慢心」などがある時だろうか。



自分が「強がる」のは、「環境・状況」や「人」など、何かを「敵」だと判断した時。
自分をおびやかす「危険」な敵がいると思った時だろうか。
自分の何がおびやかされるかというと「自信」。
「慢心」している時は、誰かに嫌味な事を言われると、よく強がる傾向がある。
「慢心」による自信は、「すぐ崩されてしまう自信」だから、それを恐がるのかもしれない。
逆に、自信がない時は、誰かに何か言われても、ヘコヘコして逃げる。
適度に落ち着いた自信を持っている時は、冷静に言葉を受け止め、その意味を考え、
自分に何か問題があると思ったらそれを探し、直すべきだと自分が思えば、直す努力をするだろう。
自分にとっては、強がるのは「怒る」のと似ている。
というか、怒っている時に強がった行動をする事が多い気がする。



自分が「恐れる」のは、不条理としてやってくる絶対的な「環境・状況」や「人」、
自信がない時は、上の「敵」も含まれるだろう。
突然電車が衝突事故を起こして死んだりしないか、今自分のいるこの地で地震が起こってしまわないか。
風呂で滑って頭を打ってしまわないか、今こうしてる間にも拳銃持った強盗が押し入ってこないか、
誰かに、絶対に拒否できない選択を迫られやしないか。
極端な話になると、突然恐ろしい世界に連れて行かれないだろうか、など。
そんな、普段なら起こり得ないであろう不幸を恐れる。
その中でも、現実的に起こりうる事への恐れが、最も恐い。それはもう、心がひずむぐらいに。
明日地震が起きると、論理的な説明付きで言われたら、それは恐い。
様々な意味で「この人には絶対に勝てない」と心の底から真剣に思えるような相手も、
やっぱり恐れるだろう。その恐れは尊敬の念に変わって、行動に出るかもしれない。
全てひとまとめにするなら、とにかく「自分の力を圧倒的に超えた何か」を恐れる。
また、自信のない時には、何もかもが「自分の力を圧倒的に超えた何か」に
見えるから、恐くなるのかもしれない。

子供の時よく感じた恐怖は、「知らない事が多すぎる」事から来る
「自分の力(知識)を圧倒的に超えた何か」が多すぎたからだと、自分は思っている。
見る物の何もかもが不思議で、大人のように凝り固まった認識力がなく、
時には壁の模様すら恐ろしい鬼の顔のようにも見えた子供時代、恐れる物はとても多かった。
自分にとっては、恐れるものは無くならない。
なくなるのは、自分の想像力がなくなり、自分の力(知識)を超えたものなどないと
心のどこかで信じ切ってしまった時だろう。
想像しなければ、何も恐くないのだから。



自分が「自信過剰で慢心」になるのは、どういう時だろうか。
例えば自分の作ったものが褒められて、有頂天になってる時だろうか?
褒められ慣れしていなければ、余計に自信過剰で慢心な状態に陥ってしまうだろう。
それは時に行き過ぎて、「傲慢」になるかもしれない。
何度か傲慢になったら、叩かれて……そしたら少しは、
自信過剰になってしまう事も減るだろう。
それを繰り返して、バランスのよい心になっていくのだと思う。

まだ時に慢心することがある。
全てが自分の思い通りになってしまうとすら思ってしまったら、それは慢心だ。
自分が全ての頂点に立っていると思ってしまったら、それも慢心だ。
何か意見を聞かされてそれで怒ったら、それもたぶん慢心だ。
「最初から自分が完璧だと思うな」
「自分に不備がないと決めてかかるな」
自分はその気構えを忘れてはいけない。
その覚悟をおこたれば、心に奇襲の傷を負い、
そして声を受け容れる前にそれを拒絶し、怒るのだろう……たぶん。
突っ込まれたくない部分を突っ込まれた時に人は怒る、という意味では、
「自分が薄々気付いていながらも認める事ができない弱み」の部分を追求された時にも、怒る可能性がある。
その時は、自分の潜在的な思いこみや弱みに気付けるチャンス……
だと思える冷静さが残っていれば、できればそう思うよう心懸けたい。

でもまあ、真に落ち着いている時なら、その声の主がどのような意図でその声を届けたのか、理由を考える事が
できるはずだ(自分はもっと経験を積まないと、深い所までは分からないだろうけれど)。
最初から傷つける目的で書かれた中傷だと心の底から本気で思えるならそう思えばいいし、
純粋な意見(もしくは「中傷される自分のどこかに問題があるはず」)だと思ったら、
ああ、こういう見方もあるのかと、一つ勉強すればいい。
何かあって本気で怒る時は、「言われたくなかった事」を突っ込まれたか「慢心してる」か
もしくは「別の何かでウンザリしてるので八つ当たり」のどれかだろう、自分の場合は。
どちらになっても、自分をよりよく調整するための良い機会になる。
その直後は冷静でいられなかったとしても、必ず後から考え直し、変わっていけばいい。

怒った時だけでなく、心がひずんだ時はいつでも、自分の弱点に気付くチャンスになるはずだ。





これ以外に、自分の心がおかしくなるのは、突然な無気力になった時だろうか。
「こんな事(ゲーム製作)をしてても、どうせ将来サラリーマン人生で時間食いつぶされて
 やりたい事なんて何一つ出来ずに年寄りになってしまうんだ」
とかそんな悲観的な思いばかりが出て、何もかも諦めて完全にやる気がなくなってしまう事がある。
時々、たぶん一年に一回ぐらいの割合で、本気で何もかもやる気が失せる時期が出る。
その時は何に創作などに労力を費やしてるわけでもなく、ただ学業や
食事、最低限の買い物などの義務を果たすので精一杯になってしまう。
その状態になると、元の状態に回復しようという気も起きず、
自信がないわけでもなく、全てがどうでもよく見えてくる。
その時は、自分が何を考えているのかもぼんやりしていて、正常に何かを判断する事が難しい。
たぶん、身体か心が「休むべき時」を訴えているのではないかと理由付けをしているけれど、
どのみち、こうなってしまうとしばらくはどうにもならない。
時々そうなってしまう事を常日頃から覚えていないと、
たまに自分がそうなってしまった時、創作が嫌いになったのではないか、
などといった迷いが、掃いて捨てるほど出てくる。
たぶん正常な状態ではないので、自分に問うても「本音」は分からない。
なのにこれといった理由もなく、自然に治る。
治るきっかけが何なのかは、今も分からない。
一応、この状態になる事を常に覚悟し、自覚し続けないと
いざそうなった時、その状態である事に気付かずに
本気で「ゲーム製作止めよう」とか言い出して後悔しかねないので、
普段からよく覚えておかないといけない。
どうしても元気のない時、何も思いつかない時、何もしようと思わない時、
そんなスランプのような時は、必ずある。
その時は、休めばいい。



というか、落ち着いているのに心の底から無気力な時は、
怒ったり心配したり慢心したりして「本音」が見えないのとは、違うヤバさがある。
いくら考えてもやる気が出ないのは、やる気があった時の事を覚えていると余計に恐い。
昨日まで作ってたのに何でいきなりやる気がなくなったのだろう、とか、
考えれば考えるほどドツボにハマっていく。
この状況も、ハタから見る分には面白いと言えば面白いのだが、当事者はあんまり楽しいモンではない。
ただ、そういう無気力な目の世界もあって、
そういう考えや性格を持っている人間もうまく描けるようになってるかもしれない、
という意味では、いい経験だと思う。
真剣に「キャラクター」を描くなら、そのキャラクターの性格が自分の中に内在していないと、
もしくは経験していないと、なかなか上手く描く事は出来ないモンだ。